夏休みが始まった。けど、俺には関係なかった。
テストの結果が悪いこと、授業の出席日数が足りないこと、ラクロワが遅れがある生徒には手厚い対応を取ること。そういう事情が重なって、夏休みに入ってしばらく補講が続くことになったのだ。だから、今日も朝から普通に学校に行っていた俺は、けれど普通の授業とは違って十二時までで帰宅していた。蒸し暑い。
「ただいま……」
「おかえり、柊。補講はどうだった?」
玄関のところにちょうど巡くんがいた。うんざりしていただろう俺の顔を見て、少し苦笑いしている。
「ん……あんまり楽しくはない……」
「それはそうだろうな」
ハハ、と巡くんが笑って、疲れているようだから紅茶でもどうだ、と聞いてきた。巡くんの紅茶はおいしいから好きだ。外は暑かったし、何か飲み物が飲みたいと思っていた俺はこくりと頷いた。ありがとう、と伝えると、巡くんはふわりと笑って荷物を置いたら食堂に来い、と言ってキッチンへと続く廊下を歩いていった。
荷物を部屋に置いて手洗いうがいを済ませてきた俺は、お湯を沸かしている巡くんの姿を見とめると何をするでもなく食堂の椅子に座った。大きなテレビは今は何も映っていない。冷房も効いている。近くに誰もいないらしく、お湯を沸かすガス火の燃える音が聞こえた。静かで、落ち着く。
やがてグラスに氷を入れるカラカラという音がして、巡くんがアイスティーを持って戻ってきた。透明なグラスに入ったうす赤色の紅茶はキンキンに冷えているらしく、結露していておいしそうだ。レモンとシロップの瓶が一緒に添えてあったので、両方とも一緒に入れて飲む。紅茶の味がしっかりしていて、レモンとよく合っていておいしい。喉を冷たいレモンと紅茶が流れていくと、思っていたより熱を持っていた喉が内側から冷やされて気持ちがよかった。そうして一息ついたころ、今日は何をやったんだ、と巡くんが聞いてきた。
「今日は、数学をやった」
「そうか、解けたか?」
「……巡くん、分かってて聞いてる?」
「ハハ、半分半分、ってところだな。分かるようなら好ましいし、分からないのであれば家庭教師役を買って出ようと思った」
「……公式に当てはめてるのに、違うって言われる」
「そうか……まずは使う公式の見極め方からだな」
巡くんがグラスの中に残っていた氷をカラカラと回しながら言った。巡くんの教え方は、ちょっと横暴だ。これぐらい分かるだろう、という前提でとにかく叩き込んでくる。あまり頭が良くない自覚がある俺にとっては、半ば詰め込まれるような気持ちになるのだ。巡くんの理路整然とした説明を聞いている時は分かったような、頭の中が整理されるような、いっそ清々しい気持ちになるけれど、それはそういう気がするだけで実際に問題を解こうとした時には全然解けない。だから、巡くんの説明を聞くのは好きだけど、教わるのはあまり好きじゃなかった。
「今日は、ちょっと、もう無理」
「ハハハ、そうか。じゃあ、今度大丈夫な時に言ってくれ」
きっと大丈夫じゃない時なんて来ないので、夏休みが終わる頃に巡くんが勝手に教えに来るんだろうと俺は思った。だって夏休み明けにはテストがある。そのために夏休みを使わないなんて、巡くんらしくないから。でも、今日はとにかく勉強以外のことがしたい。訓練でも、なんでもいいから。そんな、きっと巡くんに知られたら呆れ顔をされそうなことを思いながら、冷たいレモンティーをちびりと飲んだ。