メランコリーキッチン

 敬にいが、伊勢崎家に行くと決まった。
 その話を聞いた時、頭から血の気が引いて音が遠のくのが分かった。そして段々と音が戻ってきた時、血と一緒に湧き上がってきたのは怒りだった。なんで、どうして、よりによって、なんでお前が!
「条件がよかったんだよ」
 その言葉を聞いて俺は思わず殴りかかっていた。敬にいは避けもせずただ殴られて、「満足?」と一言俺を見て言った。その殴られてやったんだとでも言いたげな態度に頭の中が滅茶苦茶になる。そのあと、敬にいに何を言ったのか、具体的に何をしたのかは覚えていない。気がつくと柊に羽交い締めにされて敬にいから引き剥がされていたからだ。目の前には鼻血を出して痛そうに顔を歪めた敬にいが仰向けに倒れていて、「お兄ちゃんやめて!」という梨奈の声も耳に刺さった。自分の呼吸が荒くなっていて、喉がゼイゼイ音を立てていて、何か叫んだんだろうことは分かった。けど、何も覚えていない。ただ、記憶が飛ぶほどの怒りの底で、確かに俺は後悔していた。
 
 そんなことを、少し塩気が強くなりすぎた炒り卵のパスタを食卓に並べながら思い出していた。反対にどことなく薄味になりすぎたポテトサラダも一緒に並べて、梨奈のことを呼ぶ。梨奈は大喜びで食卓について、行儀よく手を合わせていただきますと言ってからフォークに手を伸ばした。
 きっと、炒り卵の黄色があいつの髪の色に似てたからだと思う。けど、卵料理は今までも沢山作ったのになんで今更あいつのことを考えるんだろう。不思議だった。あいつのことを考えながら食べる塩気の多いパスタは、泣いたあとの口の中みたいで美味しくない。梨奈にごめんな、と謝ると、ううんおいしいよ! と笑ってくれた。それだけで何もかもが穏やかになって、涙みたいだと思ったパスタは急に海の味に感じられる。我ながら単純だ。梨奈は言葉だけじゃなく、表情やしぐさ全部をおいしいという風に使ってそのちぐはぐな料理を食べてくれた。
 ああ、ごめんな、梨奈。でも、おいしいって食べてくれてありがとう。
 俺の心のもやもやも全部梨奈が食べてくれたみたいで、それが申し訳なくて嬉しくて、パスタはやっぱり涙の味に戻りそうだったけど、それを振り払うようにコップの中の水を飲み下した。
 もう一度なんてのはいらないけど、せめてこの気持ちを言葉にできたら楽なのに。思い出せないあの日叫んだ言葉を、俺はまだ形にできていない。