日本の高校に通うようになって驚いたことのひとつに、大抵の教師が黒板を丁寧に板書するところがある。
俺が通っていたイギリスの大学の教師は板書せず、大体テキストを読み上げるかスクリーンにスライドを映すか、もし板書することがあったとしてもポイントとなる単語を書くのみで生徒は講釈を聞きながらテキストを読み、理解を深めていくことになる。
ところが日本の高校の教師は丁寧だ。テキストに書かれている内容をまとめ、理解のポイントを黒板に書き連ね、生徒はそれをノートに書き写したり教科書に線を引いたりして理解を深めていく。その丁寧さは勉学において置いていかれる生徒などいないのではないかと錯覚するほどだ。
しかしながら実際、勉学についていけない生徒というのも存在する。例えば今、目の前にいる伊勢崎さん、矢後さん、柊、北村などがそうだ。みんな補講だというのに教科書など見ず、つまらなそうに頬杖をついたり寝そうになったり外の雲を見ていたりする。勉強などまるでする気がないと言わんばかりだ。
「今回は高校一年の化学の範囲を復習するという名目だが、この中で今回やる内容についてすでに分かっているという者はいるか?」
「わかるわけないじゃん! 俺らチームバカだぜ?」
伊勢崎さんが椅子を後ろに傾けながら言ってのけた。まぁそれはそうだ。そうであるならば化学のテストで追試を受けるなどという事態には陥らないはずだ。
「今回の範囲はヒーロー活動に関係することだから万が一、ということがあると思ったがその心配もなさそうだな」
ため息をつきながら俺は三津木から借りた高校一年生用の化学のテキストをめくる。
「テキスト三十六ページをひらけ」
矢後さん以外のメンバーがいかにも嫌そうにテキストをめくる。矢後さんは寝ていた。仕方がない。起きているメンバーだけで補講を進めるほかない。
「今回の範囲は仕事と力学的エネルギーについてだ。運動エネルギーと仕事の関係は普段のヒーロー活動にも活かせる。よく理解するように」
ええーだの無理無理だのブーイングが飛んでくるが気にしない。テキストを読み上げ、ポイントをまとめ、口頭で解説を進めていく。口頭で説明しづらい数式についてもテキストに記載がされているのでやりやすい。
「つまりこの問いで聞かれている物体の速さを求める式はAに記載されているこの数式になる」
「巡ちゃん、わっかんねえよ〜! バカにでもわかるように説明してくれよ〜!」
「あー、つまりだな、この上の方で解説されている運動エネルギーと仕事の関係についての図式があるだろう、これを式として解釈するとこの赤枠で記載されている式になる」
「意味がわかんない……巡くん、つまりどういうこと?」
柊が眉間にしわを寄せながらそう言って、それ以上の解説をどうすればいいのか途方に暮れる。テキストに書いてある以上の説明などどうすればいいのか分からない。考えあぐねた俺は普段の教師を思い出し、黒板に運動エネルギーについての式を書いていく。
「……つまり、この問いで聞かれている物体の運動エネルギーの変化量を求めるには変化後から変化前を引けばいい。ここまでは分かるな?」
「ええーわっかんない! もっとボクらバカにも分かりやすく説明してよー」
これ以上どう分かりやすく説明すればいいのか。悩みに悩んだ末に、俺は黒板に車を一台描いた。簡単な四角がいくつかくっついたような形状の、幼稚園児が描くような車だ。絵なんて描いたことがない。車に見えるのかどうなのか、やや心配になりながらタイヤを付け加える。まぁ、車に見えないこともないだろう。多分。
「……この車にはガソリンが入っている。満タンだ。この車がブロックを押すとする」
車の前に四角いブロックを描く。ブロックに向けて矢印を描く。その矢印の上に仕事、と付け足す。
「……車が動くとガソリンを消費するだろ? このガソリンを消費したあとに残ったガソリンの量が運動後のエネルギー、満タンの状態が運動前のエネルギー、この差が仕事、というわけだ」
分かったか? と振り返ると柊がこくこくと頷いていた。伊勢崎さんがふーんという顔をしている。北村がわっかんないなぁ、と首をかしげている。
「それをなんで数式なんていう難解な方法で計算しようとするのか意味不明だね」
「……とりあえず仕事という概念については分かったか?」
「まぁね」
そう返答があってほっとする。同時に、教師の板書の丁寧さを思い出す。ポイントをまとめ、図にし、テストに出るぞと言い赤チョークで下線を引く丁寧さ、あれは必要なものなのだと実感する。テキストを読み上げるだけでは理解できない、そういう人間だっているのだと理解する。
「……先は長そうだな」
俺はものを教えるのがあまり向いていない。それは柊に勉強を教えるようになってから知ったことだった。分からない人間のつまづくポイントが分からないのだ、俺には。どう考えてもテキストに書いてあることがすべてなのに、それを理解できない人間がいるなんて想像しえなかった。ほとほと教師役なんて向いていないのだと思う。
「あーよし、なら次だな。ここで運動エネルギーを計算する数式というものが出てくるが」
「ゲェーーーーッッ出た数式!」
「数式を覚えるだけより成り立ちから説明した方が理解が進むなら成り立ちから説明するが、その方がいいか?」
「アハハ理解できるわけないよ!」
「ならそういうものだと覚えるんだな。なに難しいことはない。この数式の意味だが……」
分からない人間のことを考えながらテキストと並行して板書していく。丁寧に。できるだけ分かりやすく。どこが分からないのか考えながら。
分かりやすく考えながら板書するたび、チョークで手が汚れていく。まるで教師のようだ。人にものを教えるなんて俺などが行っていいことだとは思えないが、これもまた必要なことなのだろう。なにせ向いていないことなのだから。
理解してもらえたかどうかは、小テスト担当の志藤さんに任せるがね。