2022年7月23日 三津木慎、ラジオ

 不意に流れてきた音楽に魅了された。初めて聞く曲だった。
 お母さんに連れられてやってきた病院の中にあるコンビニでその曲を聞いたとき、とてもドキドキしてもっと聞きたいと思った。店内放送で流れていたその曲はそのバンドのデビューシングルで、今晩ラジオで特集をやるらしい。
「お母さん、あのね、ラジオ、あったかな」
「ラジオ? 家にあると思うけどどうしたの?」
 病室に戻る道中でさっき店内で聞いた曲がとても好きだと思ったこと、今夜そのバンドがラジオに出ること。それらを話したお母さんの表情は硬かった。
「あのね、だからラジオ──」
「バンドの音楽なんて……よくないわ慎、ああいうものは小学生の内から聞くようなものじゃないの」
 それっきりだった。病室について、僕は大して悪いとも思えない身体をベッドに押し込んでお母さんに微笑む。
「大丈夫だよ、お母さん。僕そんなに体調悪くないんだ」
「ああそんなこと言って……あなたは体が弱いんだから、無理したらだめ。大人しく寝ているのよ」
「……うん、わかった」
 お母さんが帰っていって、僕は集合病室にひとりになった。そろり、と清潔な布団から抜け出す。荷物の中から家から着てきた普段着を取り出してパジャマから着替える。そして普段通りを装って、荷物を持って玄関から外に抜け出した。
 確か、病院の近くの通りに電気屋さんがあったはずだ。しばらく歩くと見えてきた電気屋さんの中に入って、ラジオのコーナーを探す。ラジオのコーナーはほどなくして見つかった。しかし、金額が高い。子供のお小遣い数ヶ月分もするラジオを前に、僕は足がすくんでいた。
「ボク、なにか探しているの?」
 親切な店員さんが声をかけてきて、僕は意を決して尋ねてみる。
「あっ、あの、もっと、その……お小遣いで買えそうなラジオ、ありませんか」
 店員さんはざっと棚にある商品の値札を見てうーんとうなると、「うちにはないかもしれないねぇ」と残念そうに腕組みをした。
「そう、ですか……」
「ああでも待って、そうだな、もしかしたら他のお店にあるかも」
 店員さんが携帯電話を取り出してどこかに電話をかけ始めた。親しげな様子で、安いラジオを取り扱っていないかという旨の内容を聞いてくれている。
「うん、うん……ああなるほどね、ちょっと待って下さいね。ねえボク、工作は得意かな?」
「得意、かもしれません」
「うんそうか、ああもしもし? 得意だって。うん、うん。分かった。金額は? 五百円? ああなるほど、ちょっと待って。五百円だって。買えそうかな?」
 僕は無言でこくこくと首を縦に振った。
「買えるそうだよ。分かった。場所を伝えるから……はい、うん、ありがとうございます。はい、じゃあまた」
 店員さんはポケットからペンとメモ用紙を取り出して、なにかをサラサラと描いていった。
「あのね、普通のラジオじゃなくて組み立て式のラジオが五百円で買えるお店があるみたいなんだ。組み立て方法は中に説明書が入っているし簡単な方だと思う。僕も作ったことがあるけど本当に簡単だよ」
 店員さんが描いていたのは地図だった。ペン先で地図の端の方をトントンと叩いて教えてくれる。
「ここのお店から出て左にずーっと行くと、崖縁商店街に出るんだ。そこを進んで最初の曲がり角の手前に田中電機っていうお店があるから、そこにいって山田さんに紹介されて来ました、組み立てのラジオをくださいって言えばいいよ。道具も用意してくれるみたいだから」
「あ、ありがとうございます!」
 僕は山田さんに見送られながら電気屋さんを出て、左にまっすぐ向かっていった。しばらく歩くと崖縁商店街のアーケードが見えたから、そこを進んで最初の曲がり角にたどり着く。そこの手前のお店に、確かに田中電機という看板が出ていた。
「す、すみませーん……」
 僕は色々な機器が積まれているこじんまりとしたお店の中を覗き込みながら声をかける。なんに使うのか分からない機械が、背丈の低いショーウィンドウの中やその上に所狭しと陳列されている。店内は薄暗く、他のお客さんはいなかった。
「あ、あの、山田さんの紹介で、組み立て式のラジオを、買いにきました……」
 すると店の奥の戸が開いて中からひとりのおじいさんが出てきた。手招きをしている。僕は恐る恐る店の中に入った。
「話は聞いとる。ラジオが欲しいんだって?」
「は、はい。あの、今晩、流れる番組を聞きたくて……」
「そりゃ急ぎだな。まぁ大丈夫だろ。そら、そこに準備してある」
 お店の奥は座敷になっていて、畳の上に小さな紙箱と鉄の棒にコンセントがついたような道具が置いてあった。
「昔仕入れたラジオを作るキットが残ってる。年代ものだが中身は上等だ。そいつの中身を開けてトランジスタをハンダでつけるんだ。坊主、ハンダ使ったことはあるか?」
「い、いいえ」
「まぁ簡単に言えば電気の熱で金属を溶かす道具だ。ハンダを離せばすぐに金属は固まる。電気が流れる道を作ってやる道具だ」
 それから僕はおじいさんの指導の元、はじめてハンダを使ってラジオを組み立てた。おじいさん──田中さんは僕のことを筋がいいと褒めてくれた。ほどなくして組み上がったそのラジオは、小さな基盤の上にいくつかのトランジスタがついて、乾電池を繋ぐ部品とコードが繋がっている。
「こいつはイヤホンを挿すとそいつがアンテナの代わりになってくれる仕組みだ。ついでだ、このイヤホンと電池も持ってけ。なに、古いもんだが使えはする」
「あ、ありがとうございます」
「番組、聞けるといいな」
「は、はい! 本当にありがとうございました!」
 僕は田中さんに五百円玉を渡して急いで病院へと戻っていった。もうじき晩ご飯の時間だから、看護師さんや先生が僕がいないことに気づいたらいけないと思ったからだ。
 幸い、僕が病室にいないことはバレてはいないみたいでホッと息をつく。すぐにパジャマに着替えてベッドによじ登ると、タイミングを測ったかのように晩ご飯が運ばれてきた。それを急いで食べて歯磨きを終わらせる。ラジオに電池とイヤホンを取り付け、チャンネルを探す。いくつかよく聞こえる周波数はあったけど、番組名を覚えていなくてどのチャンネルが正しいか分からない。聞こえる周波数をメモして当たりをつけていく。
 ──そして番組が始まる時間になった。急いでよく聞こえる周波数を順番に試していく。これも違う、これも、これも違う。
 いくつか試したあとに繋がったチャンネルで、「今回のデビュー曲は──」という単語が耳に入って手を止める。しばらくイヤホンに全神経を集中させて会話の内容をよく聞いてみる。
 ──これだ。この番組だ。僕はどきどきしながらそのラジオの内容を聞き、今回のデビュー曲、同時にリリースされた曲を聞くことができた。どちらもすごく好きな曲で、僕は感動しながらその曲を聞いた。
「今回の曲は前に進みたいけど色々な事情があって前に進むことができない人に向けての曲なんです」
 ボーカルの人がそう話していた。
「前に進めなくて絶望して、自分には何もできないかもしれない、そう思っている人の応援歌になれればと思って作った曲です」
「そうですよね、歌詞が全体を通してこう勇気づけられるような言葉で作られていて」
「なにもできないと思っている人に、そうじゃない、今までできたことはたくさんあるはずだって思い出して欲しくて、そういう歌詞にしました」
 できたことはたくさんある。手のひらの中の小さなラジオを握りしめる。今、このラジオを聞けているのだって、僕が自分でラジオを作ったからだ。でもそれは色んな人の支えがあってできたことで、僕ひとりの力なんかじゃない。それでも、それでも僕は、今、この番組を聞けている。なにもできないわけじゃないんだ。
 番組が終わり、消灯時間が来て、僕はそのラジオとイヤホンをかばんの一番底に丁寧にしまい込んだ。
 カーテンで仕切られた病室は静かで、誰かの咳の音がして、息苦しくて、それでも僕はなにもできないわけじゃないんだと思うと嬉しくて、自分の鼓動の音が耳元でドクドクしていて、なかなか寝付けなかった。