無人島のあと/柊巡

2021年5月16日に行われたWEHウェブオンリー「エンディング・パーティ」にて発行した柊巡再録に書き下ろしとして入れていた短編です。

 無人島から無事に脱出できて本当によかった。無人島、いいところだったけどシャワーも石鹸もないし、大変だった。ご飯も、洗った葉っぱとかに乗せてて仕方ないけどあんまり好きじゃなかったから、困ってた。巡くんも虫が嫌であんまり眠れなかったって言ってたし、心配。大丈夫かな、と思って船の中で巡くんを探す。
 巡くんは船のへりに座れる場所があって、そこに座ってぼんやりと海を眺めていた。海風に巡くんの明るい髪が揺れていて、光で透けて光っている。けれどその横顔がなんとなく疲れているような気がして心の底が不安で揺れる。
「巡くん、大丈夫?」
 声をかけると振り返って、ああ大丈夫だと笑ってくれるけど、やっぱりちょっと元気がない。顔色がなんとなく白すぎる気もするし、表情もどこかぎこちない。巡くんの金色の瞳が鏡みたいに白く景色を反射している。元気がない人の目だ、と思う。
「あんまり無理しないで」
 髪の毛をなでると、少し砂っぽい感じがした。砂浜で眠ったからだ。さりさりとした指先に残る砂は細かくて白い。水浴びもしたけどシャンプーなんてなかったし、きっと綺麗には落ちなかったんだと思う。石鹸をあげたかったけど足りなかったから紫暮の分しかなくて、少し申し訳ない気持ちになる。
「大丈夫だ、慣れないことの連続で確かに多少疲れてはいるがな」
 髪の毛をなでる手がくすぐったかったみたいに巡くんが笑った。その嬉しそうな表情を見てちょっとほっとする。しばらくなでてると巡くんが軽く目をつむって、手に甘えるようにした。嬉しくなっていっぱいなでたくなる。でも髪をわしゃわしゃやるのは巡くん向きじゃないから我慢してゆっくりなでるだけにした。
 そうしてると、ふいに巡くんのお腹がすごい音で鳴った。あ、と思っていると巡くんが片手で自分の顔を覆ってうなだれる。
「……聞かなかったことにしてくれ……」
「うん、でも、巡くんお腹すいてるの?」
「気が抜けたんだ……向こうではろくに食べられなかったからな」
 巡くんの顔がちょっと赤い。かわいい。でもちゃんと食べられなくてつらいのは分かる。俺もそうだから。そう思ってると俺のお腹もぐるると鳴った。
「……つられたみたい」
「柊もか」
「うん。俺もあんまりご飯食べられなかったから……」
 帰ったらいっぱいご飯食べようね。そう言うと、眩しそうに俺を見上げてそうだなと笑ってくれた。さっきよりも少しだけ表情が柔らかい気がする。
「まぁそれより何より、風呂だなまずは……」
「わかる。お風呂入りたいすごく」
 思わず力説したら巡くんがおかしそうに笑ったから、結構切実なんだよ、だって何日も石鹸使えなかったし、と続けてみる。
 帰ったら寮の大きいお風呂に入ってあわあわのシャンプーと石鹸でしっかり洗って、寮母さんのご飯食べようね。ふかふかのお布団でぐっすり寝ようね。巡くんの隣に座ってそういう帰ったらしたいこと、あとは無人島の果物はおいしかったねとか、アメリカバイソンに追いかけられた時はびっくりしたねとか、そういうことを話した。
 
 船が陸について、送迎の小型バスにみんなで乗り込んで、一時間ぐらい揺られているとあっという間に寮についた。寮母さんが出迎えてくれて、お風呂もご飯もありますからね、というとみんながワッと歓声をあげる。
 敬ちゃんが俺一番乗り! と走っていって、敬さんまって、と光希があとを追いかけた。指揮官サンと紫暮は船にいた時からずっとどこかに電話をかけていたし、寮についてもまだ話していたから巡くんとふたりでお風呂に向かった。
 大浴場はとてもにぎやかで、めいめい日焼けに石鹸が染みるとかお湯がありがたいとか話しながらお風呂に入っていた。俺はいつもより念入りに頭と体を洗って、巡くんの背中も洗ってあげた。お礼に巡くんも俺の背中を洗ってくれて、たっぷりお湯が張っている湯船にのんびりと浸かった。すごくいいお湯だった。
 最後に暑いからといって冷たいお水をかぶって外に出ると、食堂の方がなんだか騒がしい。先にお風呂を出ていた敬ちゃんと、浅桐サンと、武居サンの声。なんだろうと覗くと、テーブルの上にものすごく沢山のご飯が並んでいた。から揚げ、ミートボールスパゲッティー、お寿司、ポテトフライ、お肉のたたき、角煮と煮卵、おっきいオムレツ、生ハムの乗ったサラダ、とか、たくさん。そのたくさんのご飯を前にして、サラダがお皿に乗ってる武居サンとお肉と生ハムがお皿に乗っている浅桐サンがなにか言い争いをしていた。敬ちゃんがたまに茶々を入れながらひとりすごい勢いでご飯を食べている。
 こんなに沢山どうしたんだろうと思ったら、台所に寮母さんともうひとり、紫暮の家で見たことがあるコックさんの姿が見えた。食堂の外には大きなワゴン。もしかしたら、紫暮の家で料理を作って持ってきたのかもしれない。
「巡くん、オムレツあるよ」
「あいつ……妙な気を利かせたな」
 でも、それを見て巡くんのお腹がぐるると鳴った。お腹すいてたもんね。
「いっぱい食べよう巡くん」
 そでを引いて巡くんを席に座らせる。オムレツから一番近い特等席。だって多分、紫暮が噛んでるならこのオムレツは巡くんのものだ。俺はお肉のたたきとお寿司とサラダを取って巡くんの横に座る。巡くんはちょっと恥ずかしそうにオムレツを大きな取り分け用のスプーンでよそって席に座った。綺麗な黄色のオムレツは少しだけ中が半熟で赤いケチャップがピカピカしている。
「いただきます」
 ふたりでそう言い合って、ご飯を食べる。お肉のたたきはやわらかくてしっとりしていてドレッシングの酸味がちょうどよくてほっぺたが落ちそうだった。久しぶりのお肉、すごくおいしい。頭の先からほっぺたがじーんとして、幸せな気持ちになる。巡くんはどうかなと思って横を見ると、スプーンを口にくわえたままじっとしていた。じっとして、オムレツをずっと見つめている。たっぷり十秒ぐらいはそうしていて、やがてゆっくりと咀嚼をはじめた巡くんは、その最初のひとくちを時間をかけてゆっくり噛んで、飲み込んで、小さくため息をついた。
「……うまいな」
 巡くんがひとりごとみたいにそう言って、ふたくち目をスプーンで運ぶ。
「うん、おいしいね」
 巡くんがそうやってゆっくり味わってオムレツを食べていくのを横で見られるのがとても嬉しかった。俺は次にサラダを食べて、新鮮できれいでおいしい葉っぱがこんなに幸せな味つけで食べられることがありがたくて奇跡みたいで、農家の人とか寮母さんとか紫暮のお家のコックさんに心の中でありがとうを繰り返しながらたくさん食べた。
 気がつくと食堂に全員集まって、みんな思い思いに自分の好きなものをお皿に取ってわいわい喋りながら食べていた。でも三十分も経つとあんなにたくさんあった料理はほぼなくなっていて、十五人分のヒーローの胃袋はすごいなと人ごとのように思う。
 お腹いっぱい食べたなぁ、と少し眠い頭で思っていると、巡くんが部屋に戻るか? と尋ねてきたので頷く。
「巡くん、お腹いっぱい食べられた?」
「ああ、久しぶりに胃が満杯になるまで食べたよ」
 少し食いすぎたな、とちょっと苦しそうにしている巡くんが、普段そんなに多く食べないことを知っている。巡くんがそれだけお腹がすいていて、でもお腹いっぱいに食べられたというのは、なんだか嬉しい。
 あんまりぐっすり眠れなかったことと、お腹いっぱい食べて眠くなったことでふたりとも少し寝たいというのが一致したので、部屋の前で別れる前に勇気を出して一緒に寝よう、と誘ったら、いいぞと言ってもらえたので俺の部屋で一緒に眠ることになった。
 冷房をかけて、薄いタオルケットにくるまって巡くんと手を繋いで横になる。巡くんの手があたたかくて、タオルケットとベッドがやわらかくて世界でいちばん幸せだと思った。
「柊、おやすみ」
 巡くんが俺の髪をなでた。幸せなしびれが髪の毛から皮膚を通って全身に渡っていく。とろとろとろけそうなぐらい眠くて幸せで、俺も巡くんの髪に触れたくて手を伸ばす。
「巡くんも、おやすみ」
 巡くんの髪はなめらかでやわらかくて、もう砂っぽく汚れてはいなかった。巡くんの目もとろんとしているけど、色がはっきりしている。顔色も血が巡っていて健康的な感じがした。よかった、とほっとする。巡くんが健やかで、お腹いっぱいで、過ごしやすい部屋で、やわらかな寝床で、こうして眠れることが何よりも嬉しかった。
 しばらくイーターは出ない。だから俺たちもこうして眠っていても構わない。うとうとしながら、なんて幸せなんだろうと思った。綺麗なお水が飲めること、おいしいご飯が食べられること、あたたかいお風呂に入れること、やわらかい寝床があること、巡くんが健やかでいること、巡くんのそばにいられること。
 ふわふわであったかくて幸せで、それだけでいっぱいになりながら眠ることができる。心の底から幸せで、ずっとこういうものが守れればいい。手のひらの温度がまざりあうのを感じながら俺は眠った。